大判例

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東京高等裁判所 昭和26年(う)4290号 判決

控訴人 被告人揚志華の原審弁護人 吉田吉四郎

原審検事 宮本彦仙

検察官 渡辺要関与

主文

原判決はこれを破棄する。

被告人を懲役一年以上二年以下に処する。

原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は末尾添附の原審検事宮本彦仙並びに弁護人吉田吉四郎各作成名義の控訴趣意書のとおりで、これに対し次のとおり判断する。

検事の控訴趣意第一、二点について。

本件記録によれば、被告人が若し坂上千惠子が捜査係官から要求されて電話をかけたものであることを知つたならば、勿論被告人は本件麻薬を入手所持しなかつたであろうから、ここに被告人には錯誤があり被告人は詐術(トリック)にかかつて本件麻薬を所持するに至つたものであることは原判決の認めるとおりである。しかし、たとえその麻薬を所持するに至つた原因動機に捜査係官の慫慂行為が行わつており、右捜査係官の行為が不法であつてもそのために本件被告人の行為の違法性乃至責任性を阻却すべき何等の理由をも発見することはできない。

ただ所謂詐術陷穽が捜査の方法として適法であるかどうかということは問題である。原判決も説明するように全然罪を犯す意思もなく又かつて同種の犯罪を犯したこともない者を執拗に詐術を用いて強いて罪を犯かさせてこれを検挙するというようなことは違法な捜査方法と認めるのを相当とすべきであろうが、しかし、捜査の端緒の不法と、起訴の不法若しくは無効とは区別すべきである。又、その詐術にかかつて罪を犯した者の行為が犯罪を構成するかどうかということは全く別個の問題である。原判決が本件のような捜査方法は憲法前文と同法第一三条の規定の趣旨に反するものであるから被告人を処罰することはできないとして、被告人に無罪を言渡したのは捜査の端緒の不法と起訴の不法若しくは無効の問題とを区別せず且つこれと実体法上の問題とを混沌したもので法令の解釈適用を誤り判決に影響を及ぼしているものである。論旨は理由があり、原判決は破棄すべきものである(ちなみに、本件公訴の提起は無効であるとする法律上の根拠もないから公訴を棄却すべきものでもない。)

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 吉田常次郎 判事 石井文治 判事 鈴木勇)

検事宮本彦仙の控訴趣意

原審判決は公訴事実中被告人楊が昭和二十六年四月二十日午前零時十五分頃横須賀市京浜急行電鉄汐留駅附近において何人も所持することができない麻薬であるヘロインを含有する白色粉末二十三包(合計八・二瓦)を所持したとの点については、之を認めることができるが、被告人が右麻薬を所持するに至つたのは横須賀憲兵調査部係官森達二の詐術(トリック)――即ち右同日同係官が坂上千惠子を麻薬取締法違反等の被疑事件につき取調中、同人が所持していた麻薬が同年三月初頃被告人楊より譲受けたものと供述するので千惠子に命じて自己の面前で被告人楊に電話をかけさせ、再び麻薬を買うから千惠子の自宅まで持つて来て呉れと申入れ、被告人が委細を知らずに趙栄井より買受けて本件の麻薬を持参したところ待受けていた前記係官森達二等に逮捕されたもの――に陷つたものであると認定し、このような捜査のやり方は、

(イ)被告人楊に対し不法譲渡した者の犯罪を発見する等のために用いて有効であり、それらの犯罪を処罰することに何人も異議はないが、

(ロ)犯罪捜査の必要があるからといつて新たな犯罪の実行を誘発するような陷穽を設けることは到底これを容認することが出来ない。

として

(1) 本件がもし我が国の捜査機関によつて捜査され、被告人が日本国民であると仮定すると被告人を処罰すべきものとする見解は憲法前文と憲法第十三条に違背すること(而してこの理は捜査機関が連合国占領軍に属し被告人が中国人であつても同様であること)

(2) 本件麻薬の所持は抽象的危険が客観的に除去されていることの理由によつて本件は罪とならないものとして無罪を言渡したものである。併し原判決は左記の理由によつて破棄を免れないものと信ずる。

第一点原判決は「陷穽」に対する解釈を誤つたため、法令の適用を誤り、その過誤は判決に影響を及ぼすこと明かである。

原判決が所謂「陷穽」と称した事実は、前記森係官が坂上千惠子をして被告人に対し電話により麻薬の買受け方を申込ませたことにあると解せられるが「陷穽」なる概念自体については必ずしもその明確な説示ありとは云い難い。因みに英米法において「陷穽」(エントラツブメント)が今日通常用いられる意味としては、「刑事訴追をするため或る者をして本来その意思のない犯罪を犯すよう挑発し教唆すること」であり「犯罪を犯す用意ある又は意思のある者に対し単にその機会を提供することは陷穽」ではない。とされている(ブラック、「ローデイクショナリ」『エントラッブメント』項及びダブリュー、エル、バーデイック「ロー、オブ、クライム」二五二頁)。飜つて被告人と麻薬との親近性につき考察すれば

(一)原判決認定の如く被告人はこれよりさき、昭和二十六年三月初め頃横須賀市汐入五丁目三番地川田登馬雄方において前記坂上に対し前同様のヘロイン約五瓦を代金一万一千円で譲渡したものであり、同年七月六日附検察官作成の被告人に対する供述調書によれば、右原判決認定事実のヘロインも前記趙栄井から買受けたものである外、同年二月頃にも同様ヘロインを趙から買つて坂上に譲渡するの所為に出ていたこと明かである。

以上のように被告人は都合三回に亘り同一人から略々同量のヘロインを各代金一万一千円で買受け之をいずれも同一の人物に譲り渡しているのであつてその常習性顕著なものがある。

(二)その麻薬経歴としては昭和二十四年十月二十九日横浜CIDに検挙され横浜憲兵裁判所において懲役六月(執行猶予五月)に処せられ(被告人に対する麻薬取締官作成の供述調書)

(三)昭和二十五年七、八月頃から麻薬中毒となり、同二十六年二月頃迄毎月約五瓦位ずつ張欽明なる者より譲受け、張が大阪方面に移住してからは前記趙栄井及び通称「フク」さんなる中国人にその供給を仰いていたものである(引用、前同)。

(四)而し、逮捕当時には一日約〇・五瓦を約十回に分けて注射する域に達しており(前同)

(五)嘗て同棲していた坂上に対しては自己の入手する麻薬を大抵半分位譲つてやつており同女も亦中毒になつていた(前同)

以上挙示したところにより被告人の本件犯行は、同人の前歴たる一連の麻薬事犯の一部であつて、敢て本件坂上の電話を俟たずとも被告人に犯行の用意ありその意思があつたことは明かである。

他方捜査官が坂上をして電話をかけさせたことも決して被告人をして新たな犯行に陷らしめん意図からでなく被告人が坂上に対して前記のように反覆麻薬を売渡していた容疑により之を逮捕し、併せて証拠をより一層蒐集してその捜査を完璧ならしめんためであつたのである。証人坂上千惠子の原審公判廷における供述は之を裏書している。即ち坂上によれば

(イ)「私の家を家宅捜査されたとき麻薬が耳掻三、四杯位発見され横須賀CIDに差押えられました」旨(三九丁)

(ロ)「この麻薬は私の使い残しで二月末か三月初頃楊志華に買つて来て貰つたものです」旨(三九丁裏)

(ハ)「CIDの方は私が過去に麻薬を買つたことがあることを知つており軍裁にかかつたことも知つていました」旨(三七丁)

(ニ)「CIDの方は私の家を捜査した時に楊志華の写真が飾つてあつたので私が楊志華から麻薬を買つたものだと思つて私に森係官の面前で電話をかけ前より多くの麻薬を持つて来いと楊に頼ませたわけです」旨(三七丁)であつて、刑事訴追をするためには以上(イ)乃至(ニ)の事実で略々十分というべく好んで新たな犯行に陷らしめる必要は毛頭ないわけである。之れ前記電話の目的が楊の逮捕と証拠の蒐集にあつたという所以である。

而も森係官は坂上をして「前より多くの麻薬を持つて来てくれ」と申込ませただけであり、その入手先を指示したわけでもない。被告人は坂上の電話をきつかけとして前二回と同じく趙の許から坂上に届けたものである。森係官が坂上をして買受けを申込ませた言葉に何等積極的な言動なく、他方「趙」-「楊」-「坂上」のルートが既に二回に亘つて確立していたことを思合せれば、被告人の本件犯行に至る決意が前記電話によつて初めて生じたものでなく、その源の遙か以前にあること殆ど恰も被告人自身の所持していた麻薬を三回に亘つて坂上に譲渡した場合の如くである。従つて本件は何等罪を犯す意思のない被告人に犯意を生ぜしめ元来犯そうとも考えていない犯罪を挑発、誘発したものではなく、之を以て原審が「陷穽」なりとしたのは「陷穽」の概念を不当に拡張解釈したものであり、その結果後記第二点の如く憲法前文並同第十三条を誤つて適用したのであつて、その誤りは、本件を罪とならない旨判示した原判決に影響を及すこと明かというべく破棄を免れないと信ずる。

尚附言すれば原判決は米法に所謂「陷穽の抗弁」なるものを援用しているが、之が一般的に認められているか否かは未だ多分の疑がある。現に米国においても、禁酒法の下において違法に酒類を販売している嫌疑ある者の店舗で警察官が証拠入手の目的を以て酒類を購入することは陷穽に非ずとする判例( Poople v Scaduto, 301 Mich 700,4.N.W.(2d)(64)があり阿片についても同様の判例があり(Loaie Hung V.U.S. 111F(2d)325 ).更に囮に"ればならない。

第二点原判決は、法令の適用に誤りがあり、その過誤は判決に影響を及ぼすことが明かである。

(一)原判決は、被告人の本件所為を刑罰を以て処罰すべきものとする見解は憲法前文及び同第十三条の趣旨に牴触するから罪とならないものである旨判示している。併し乍ら

(イ)処罰すべきか否かということと罪となるか否かということは同日に論じえないことである。即ち前者は一応犯罪が成立していて初めて論ぜらるべきことであるに反し、後者は犯罪そのものの第一要素たる構成要件が充足しているか否かの問題であるからである。従つて原判決の前記説示はもし之を罪とならないという点に重点を置いて読めば如何なる構成要件が欠けているか不明であり、逆に処罰することが憲法前文及び同第十三条に牴触するとの点を生かして読みこれが罪とならない理由とするならば、一体かような構成要件があるかどうか到底理解することができない。

(ロ)或は原判決の趣旨が、前記のような捜査行為を正当と肯定することは憲文前文並に同第十三条に違背するということを強調するものであるとするならば、本件捜査行為が違法であるため本件は罪とならないということになる。併し捜査行為が違法であるからといつて直ちにそのため発生した犯罪が当然罪とならないとの見解が誤りであることは所謂自然犯の場合を考えれば極めて明かである。例えば盗犯検挙月間乃至コンクールにおいて捜査官がその成績をあげるためその身分を秘して窃盗の常習性ある者に窃盗を教唆し犯行を行わしめて之を検挙する場合、更に極端ではあるが捜査官が他人に殺人を教唆しその犯行を行わせて之を検挙する場合、捜査官自体たとえその動機が犯人の検挙にあるとしても当該窃盗乃至殺人の教唆犯としての責を負うべきこと勿論であるが、他面かように捜査官の誘発によつて新しく成立した犯罪である右窃盗乃至殺人を無罪であるとする根拠があるであろうか殊に後者に至つては捜査官の身分が明かにされていたとしても、之と併せて更に他に何等かの特別事情なき限り之を無罪とすることが社会通念に副うものと考えられない。

(ニ)更に原判決の所謂憲法違反の問題につき一言すれば、本件捜査官の行為が犯罪の捜査行為として行われたものである限り、その適不適は先ず刑事訴訟法その他之に関連する一連の法令に照して判断すべきものであり、その結果適法行為であることが明かとなつた場合、初めて一歩進んでここに憲法違反に非ざるか否かの問題が浮んで来る筋合のものである。而して此の場合と雖も個々の具体的行為が直ちに憲法上の問題となるのではなくて、之を適法な行為とした前記刑事訴訟法その他の諸法規が批判の対象となるだけのことである。

従つて前記捜査行為が直ちに、憲法前文及び同第十三条に違背するという原判決は即ち憲法の条規が具体的な個々の当該行為の適不適又は有効無効を規定したものであるとする誤りを冐したものと云うべきである。

以上のような次第であつて、たとえ社会の意識の一部に原判決の底に流れる主張に対して賛同するものがあるとしても、それは唯、所謂法定犯乃至行政犯のように犯行即被害という危機感が比較的潜在的であり、被害が直接身に迫るものと通例考え難い場合にのみ現れがちな傾向であるにすぎず、このことと法律上罪となるか、ならぬかとは無縁のものであつて、罪となるか否かは飽く迄犯罪の構成要件、違法性及び責任の三要素について検討されなければならない。況んや近時の麻薬事犯の特質は前記のような法定犯の中においても特異な地位を占めつつあり、之に対する社会的関心も急激に昂まりつつある現状において一層然りである。

之を要するに原判決は罪となるか否かの判断の規準を誤り且つ飛躍して一挙に憲法前文並に同第十三条を誤つて適用したものというべくこの誤りがなければ原判決のような結論に到達しなかつたものと考える。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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